2022年7月9日 作成
■はじめに
本記事では1970年代のF1の歴代ドライバーチャンピオンのTOP3をまとめてみました。
マシンやタイヤのルールが毎年のように変わる中、各シーズンで活躍したドライバーを見ていきましょう。
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■1979年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | ジョディ・シェクター | フェラーリ | 51 |
2位 | ジル・ヴィルヌーヴ | フェラーリ | 47 |
3位 | アラン・ジョーンズ | ウィリアムズ | 40 |
画像:https://twitter.com/f1/status/1090254314784899072
南アフリカ人ドライバーのジョディ・シェクターは1970年に地元南アフリカでレースキャリアをスタートさせました。その後ヨーロッパに活躍の場を移し、1972年にマクラーレンでF1デビューしました。F1チャンピオンを獲得したフェラーリには1979‐80の2年間在籍しました。なお、フェラーリドライバーが次にチャンピオンを獲得するのは2000年のミハエル・シューマッハまで待つことになります。
■1978年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | マリオ・アンドレッティ | ロータス | 64 |
2位 | ロニー・ピーターソン | ロータス | 51 |
3位 | カルロス・ロイテマン | フェラーリ | 48 |
画像:https://www.f1-fansite.com/wp-content/uploads/2019/10/Mario-Andretti-1978.jpg
今ではインディカー・シリーズのイメージが強いマリオ・アンドレッティですが、実はF1チャンピオンも獲得しています(筆者は恥ずかしながら知りませんでした)。1968年にロータスからF1に参戦し、1982年のウィリアムズまでの14年間をF1で過ごし、131レースに出走しています。インディ500でも優勝しており、アメリカでは絶大な人気・影響力を持つドライバーです。また、2022年7月現在、F1へのチーム参戦を狙っているというニュースも出ています(※)。
(※)F1参戦目指すアンドレッティ、アメリカ人ドライバーにF1で「まっとうなチャンスを」与えたい
■1977年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | ニキ・ラウダ | フェラーリ | 72 |
2位 | ジョディ・シェクター | ウルフ | 55 |
3位 | マリオ・アンドレッティ | ロータス | 47 |
画像:https://cdn-4.latimages.com/images/mgl/1PlQK/s4/open-uri20121022-22608-ac8rx8.jpg
ニキ・ラウダは前年1976年のドイツGPでの大怪我を負ったこと、および最終戦を自らの判断でリタイアしてチャンピオンを逃したことでチームとギクシャクしたこと、これらが重なりシーズン開始前のテスト走行をせずに開幕を迎えました。しかしながら、ラウダは強さを見せてシーズン途中にフェラーリを自身のチームとして立て直し、2度目のチャンピオンを獲得しました。ただ、フェラーリとの関係は最後まで改善されず、ラウダの判断でチームを去りました(エンツォ・フェラーリ氏は強く引き留めたそうですが)。
■1976年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | ジェームス・ハント | マクラーレン | 69 |
2位 | ニキ・ラウダ | フェラーリ | 68 |
3位 | ジョディ・シェクター | ティレル | 49 |
画像:https://www.racefans.net/2019/03/14/racefans-round-up-14-03-2/racefansdotnet-20171012-071820-1/
イギリス人ドライバーのジェームス・ハントは1976年にマクラーレンに加入しました。チャンピオンシップはニキ・ラウダがリードするなか、ラウダがドイツGPの事故で離脱する間にポイントを重ねました。ラウダは驚異的な回復でレースに復帰するとポイントを重ねていき、なんと最終日本GP開始時点ではラウダが3ポイントでトップに立っていました。タイトルレースはラウダ有利と見られてましたが、悪天候のためラウダが自身の判断でリタイアした結果、4ポイントを獲得したハントがチャンピオンを獲得しました。
■1975年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | ニキ・ラウダ | フェラーリ | 64.5 |
2位 | エマーソン・フィッティパルディ | マクラーレン | 45 |
3位 | カルロス・ロイテマン | ブラバム | 37 |
画像:https://image.posterlounge.com/images/l/1883600.jpg
ニキ・ラウダは1974年にBRM(ブリティッシュ・レーシング・モータース)からフェラーリに移籍しました。前年からフェラーリとマシンをとにかく走りこませ完成度を上げた結果、全14戦中リタイアは1回のみで(優勝は5回)、またラウダの安定感ある走りも重なり、自身初のF1チャンピオンを手にしました。
■1974年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | エマーソン・フィッティパルディ | マクラーレン | 55 |
2位 | クレイ・レガツォーニ | フェラーリ | 52 |
3位 | ジョディ・シェクター | ティレル | 45 |
エマーソン・フィッティパルディはブラジル人として初めてF1で優勝し、チャンピオンを獲得したドライバーです(1972年、74年の計2回獲得)。このため、母国ブラジルでは英雄とされてます。ブラジルはモータスポーツが盛んなのか、チャンピオンクラスのドライバーを何人も輩出してます(アイルトン・セナ、ネルソン・ピケ、フェリペ・マッサなど)。そのうちブラジルとF1の歴史についても勉強したいと思います。
■1973年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | ジャッキー・スチュワート | ティレル | 71 |
2位 | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス | 55 |
3位 | ロニー・ピーターソン | ロータス | 52 |
イギリス人のジャッキー・スチュワートはF1で2度のF1チャンピオンを獲得した名ドライバーです。ドライビングスタイルは一発の速さと同時に、冷静にレース全体を見てポイントを稼ぐものでした。
現代の私たちにとって、スチュアートはF1チャンピオンである以上に、「安全対策を訴え続けた人」というイメージが強いかもしれません。スチュアートが現役時代は『F1とは危険と隣り合わせのスポーツ。そういうものだ』という、今では信じられないような風潮がありました。スチュアートはこの風潮に真っ向から反対した初めての人でした。(1971年シーズンに続く)
■1972年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス | 61 |
2位 | ジャッキー・スチュワート | ティレル | 45 |
3位 | デニス・ハルム | マクラーレン | 39 |
画像:http://en.espn.co.uk/f1/motorsport/story/6293.html
この年、エマーソン・フィッティパルディが自身初のF1チャンピオンを獲得します。チャンピオン獲得時、フィッティパルディは25歳273日で当時の最年少記録であり、この記録は2005年にスペイン人ドライバーのフェルナンド・アロンソまで長らく更新されることのないものでした。
■1971年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | ジャッキー・スチュワート | ティレル | 62 |
2位 | ロニー・ピーターソン | マーチ | 33 |
3位 | フランソワ・セベール | ティレル | 26 |
画像:https://www.classicdriver.com/en/article/classic-life/snapshot-1971-eyes-prize-jackie
「安全対策」を訴えるスチュアートは当時奇妙な人と捉えられていましたが、それでも発言を続けることで徐々に賛同を得ていきました。引退後も安全性の向上に努めていき、現在では当たり前となっている「レースへの医師の胎動」「サーキットへの医療施設の設置」「安全対策を講じた車のレギュレーション」「タイヤバリアの設置」などに繋がってます。
■1970年シーズン
順位 | ドライバー | チーム | ポイント |
---|---|---|---|
1位 | ヨッヘン・リント | ロータス | 45 |
2位 | ジャッキー・イクス | フェラーリ | 40 |
3位 | クレイ・レガツォーニ | フェラーリ | 33 |
画像:https://www.bbc.com/sport/formula1/54973818
ドイツ人のヨッヘン・リントは1964年にブラバムからF1デビューを果たし、1969年にロータスに加入しました。アグレッシブなドライビングが持ち味で速さを見せて、1970年はランキングトップを維持し、残り4戦の時点であと1勝すればチャンピオンという状況でした。そして迎えたイタリアGPで悲劇は起こります。予選走行中にコースアウトし、マシンは大破、リントは若干28歳で帰らぬ人となりました。。残りのレース結果でもリントのポイントを超えるドライバーは現れず、リントにチャンピオンが与えられました。なお、残り4戦でチームメイトのエマーソン・フィッティバルディが新人ながら優勝をするなど、ライバルの得点獲得を阻止し、リントのチャンピオンを獲得を援護しています。
以上
各年代のチャンピオンをまとめてます。
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